【 レンズと悪魔 Ⅴ 魔神陥落 】
( ライトノベル / 六塚光 / 角川スニーカー文庫 )
【登極】なんて言葉、ひっさびさに目にしました。脅威の語彙の持ち主です、バルミダの英雄。
五作目に入っても相変わらず相変わらずな文体と内容ですが、今作を読んだ印象の九割八分程度が上記の登極野郎(誰)ことバルヒーヨで埋め尽くされているのは、まあ、仕方の無い事。【宇宙大将軍】なんて単語はそんじょそこらの誇大妄想では到底出て来ない代物でしょうよ。その辺りをジョークで言っているのか本気で言っているのかが丸分かりなのがなお怖い。税騎士の三人にしても同様の感想が浮かびます。冗談と真剣の境界をあっさり取っ払ったキャラ設定も、この作品の魅力の一翼を担っているのでしょうけどね。……唐突に、死にそうになかったサブキャラがあっさり、ばっさり退場する点、も?(それは多分違う)
後書きにも書かれていたように、どうやら人気があるらしくもう暫くは続くそうです。取り敢えず、安堵。
【 円環少女 6 太陽がくだけるとき 】
( ライトノベル / 長谷敏司 / 角川スニーカー文庫 )
太陽の他にも色々なものを砕いて、砕いて、この作品は成立しています。
【因果応報】と言う四文字熟語がありますが、この物語ではそれが【因果】と【応報】に真っ二つに分断されているような感触を覚えました。この作品における”現代”の地獄、魔法世界の関係にしても、仁と舞花の関係にしても、国城田とガチケンと”月光仮面”のこの三十年間にしても――――まず始めに自分達ではどうにもならない因果を背負った状態からスタートせざるを得なかった現実。そこに必死に抗い、どうにか修正しようともがき、あがき、苦心し、奔走し、それでも最終的にはどうにもならず”落ち着く所に落ち着いた”結末が何とも心苦しく苦々しい限りです。国城田が最期に感じたであろう【――なのに、奇妙なほど日本に帰ってきたことに後悔はなかった】と言う一文を読むと、その苦々しさがより膨らんで、ね。何と言うか、心の中が強制的な”満腹感”で満たされてしまったような感じが。
よくよく考えてみると、この巻での主要な戦闘はその殆どが”同士討ち”だと言う事に気付きました。それが最早全然不思議な事に思えて来ないのがサークリットガール・クオリティと言えるのかも知れませんが、それはそれで全然周囲に喧伝出来ないアピール点。前巻までであれだけ無敵の強さを誇っていた八咬があのザマ(失礼)なのが戦闘関連での唯一の”なごみ”だと言うのは、あんまりと言えばあんまりな扱いだと思います――――――――長谷先生。横棒を長々と繋げるだけで円環少女の文体っぽくなるマジック(違)。
寺山修司【書を捨てよ、町へ出よう】とセットでこの作品を読むと、多分、脳内で新たな化学反応が起こる筈。
次巻での事態の進展を心待ちにしたいような、いっそのことここで打ち止めにして欲しいような複雑な心境ですが、個人的には番外編で東郷先生の若かりし頃を見てみたいものです。案外、同年代の時の仁と同じようなへたれ属性持ちだったりしたような気が(無い)。
【 グラスホッパー 】
( 文庫・小説 / 伊坂幸太郎 / 角川文庫 )
【重力ピエロ】を読んだ時に感じ、そしてこの作品を読んだ時に改めて強く感じた、この”地に足の付いていない”感覚。とは言えそれは巷間で使われるネガティヴな意味合いではなく、作品の中にちらほらと迷い込む非現実を違和感無く構成の中に組み込む為に必要な要素なのでしょうね。重力ピエロで感じたのは語り手達を取り巻く不安定な浮遊感、そしてこの【グラスホッパー】では”殺し屋”達が蠢く際に生じる動的な跳躍感。作品の本質を”露わにし過ぎない”程度に絶妙の加減で表現しています。文章だけではなく、命名センスにも憧れを抱きますね。
刺し屋、自殺屋、そして、押し屋。
日常からかけ離れている仕事を選択している彼等は、題名になぞらえて言うなら、地を蹴って跳躍している真っ最中なのでしょう。ただ、普通の人々は跳躍してもすぐ現実、大地に引き戻されてしまうのに、彼等は重力の追撃を上手くやり過ごして非日常の中に浮遊したままでいられる訳で。
けれど高く跳び過ぎたグラスホッパーは、墜落する事でしか、絶命する事でしか地面に降り立てない宿命もきっと背負っています。他の二人と比べて明らかに自らの仕事に思想的な意味を見出している”押し屋”は、自らが地面に墜落するその瞬間、一体何を走馬灯として見出すのでしょう。
使い捨てられるのではなく、使い切られて行く、非情な社会。
――にも関わらず、
物語の最後に一粒の救いをしっかり残して行く辺り、伊坂さんは心憎い。苦笑。
【 円環少女 5 魔導師たちの迷宮 】
( ライトノベル / 長谷敏司 / 角川スニーカー文庫 )
同じ世界を舞台としながら、決定的に”ここ”と乖離していた”そこ”。
そんな小説内の擬似的現代が巻を追う毎に実際の”ここ”に接近し、接岸し、接着される過程は、架空の物語だと分かってはいてもじっとりと心を湿らせます。他のライトノベル小説と比べても格段に細部の設定や小道具の描写が精緻である事も、そんな感想を抱く後押しをしているのでしょう。とは言えそれは、前へと進む後押しと言うより、崖から躊躇無く突き落とすようなものですが。
魔導師と最新鋭銃器の組み合わせは、正に”鬼に金棒”。
そしてそんな鬼達を情け容赦無く始末する桃太郎、の皮を被った狩人達。魔導師中隊の壊滅過程を文章上で追う毎に、それを実感します。もしも今の時代に童話【ももたろう】が創作されるのならば、この【公館】の面々程に主人公の役回りが似合う人々もいないでしょう。その財宝が換金不可能(と言うか保持すら危険)な核爆弾である事自体、救いの無い皮肉ですがね。
そう言えば、新民主主義研究会の中では【イシハラ】だけがまだ登場していません。今後登場するのか、登場予定の無い名前のみの人物なのか、それとも既に何らかの偽名(?)で登場しているのか。気になると言えば気になる事柄ですが、その前にこのままでは未登場の専任係官二人が未登場のままで終わってしまいそうな嫌な予感。
――――”君たちは、正しく怒っているか?”
それがきっと、
最も難しい怒り方です。
( 書籍・文庫 / 森博嗣 / 中公文庫 )
読み進めて行く中で否が応でも感じてしまう、何とも言えない独特の息苦しさ。それは多分、この小説の物語、文体そのものが、空気が存在しなくなるぎりぎりの高高度を飛行しているからなのでしょう。
敢えて世界設定や背景説明を割愛し、主人公、語り手の周囲で進む状況だけを淡々と描写する事で、森先生のあの冴え冴えとした文体に更なるアクロバティック感が加重されたように感じます。小説と詩の境界ぎりぎりを曲芸飛行のように舞って行く、息詰まる言葉の数々。
私見ですが、音楽を聴きながら読むのが向かない小説です。音は空気を伝播する事によって伝わりますが、限りなく空気の薄いこの小説の中では、きっと無用の長物になるでしょうから。
心を揺さぶった一文は、
「言葉の方が、人よりも一瞬だけ早く死ぬからだ」
文中の数々の森語録の中でも、際立っている一文。深々と納得。
来年(08年)にアニメーション映画化されるそうですが、押井監督がこの世界をどのように因数分解、再構築、実体化させるのか。
期待と悪寒は常に表裏一体です。苦笑。