【 Sentimental Valkyrie 1st 】
(06.9.27 ―― 【PERSONA3】)
(11月某日:【DEATH】&【AEON】)
下り階段の手前で立ち止まり、一閃の声音。
「ダメであります」
「……え、いや、まだ何も言ってない、けど?」
這い寄るようにじんわりと戦ぐ背後からの足音を聴覚に捉えるなり、アイギスは宣告する。一拍二拍遅らせた首の旋回は、自らの背後に立っている追跡者の姿を視界に捉えさせた。着崩した、と言うレベルを色々な意味で超越――そもそも上着を着ていない――した制服と首筋にぐるぐると巻き付けた黄色いマフラー姿は、場違いと間違いの連立方程式をきっちりと満たしていた。
放課後の一幕。
転入間も無いクラスメートを真っ向から視認して、双眸を溺死後の雑巾並みに強く引き絞る。睨め付けられた当の彼、望月綾時は、対照的に双眸をゆったり見開きながら視線を受け流す。一瞬だけ見せた狼狽の色彩を速やかに上塗りし、平静を取り戻したようだ。
そんな彼に向け、アイギスはお構い無しに宣告を続行する。
「何度頼まれても結論は変わりません。貸せないものは、どうあっても貸せませんから」
「……うーん」
気を取り直して紡ぎ直そうとしていた”頼み事”を口述する前にばっさりと切り落とされ、望月はあからさまな苦笑を浮かべつつ腕組みした。ただ単に【居眠りしていた授業のノートを一晩貸して欲しい】と言うありきたりな頼みなのだが、彼女が何故こうも烈しく拒絶するのかが、彼には分からない。
ついでに言えば、自分に黄色い声援と桃色の視線を送って来る他のクラスメート女子に借りれば何の障害も無いと分かっているのに、何故か眼前のこの少女から借りたい、と意固地に考え続けている自分自身の真意も、良く分かってはいないのだが。
とは言え、手持ちの選択肢に【撤退】の手札は存在しない。
望月は更なる懇願を続けようとして、ふと彼女の頭部に意識が縫い付けられた。数メートルの彼我の距離を滑るように縮めつつ、咄嗟に思い付いた”褒め言葉”を、脳内検閲抜きでそのまま口から放り出す。
「えぇと――あ、そうそう。転入初日からずっと気になってたんだけど、キミのそのヘアバンドとても個性的でハイセンスだよね? 特にその耳当てが天道虫みたいで可愛らしさを更に増、ッ!?」
その後の言葉は、突如逆転した天地の遠心力によって、何処かへ振り払われる。
他の女子生徒を褒める時と同様に、彼女の頭部にさり気無く伸ばして来た望月の手をアイギスは片手で掴み止め、同時にもう片手をがら空きな腋へと添える。そのまま体躯の横旋回と共に縦回転――柔道で言う【一本背負い】にも似た投げ技の餌食となった彼は宙を舞い、下り階段の途中に墜落じみた着地、訂正、やはり墜落。そのまま十段近くを転げ落ち、踊り場の壁面に激突して漸く停止した。
空転、暗転、明滅、白濁。
誤作動と誤動作を反復横飛びのように繰り返す、眼の向こうの世界。
踊り場に仰向けで転がり、階段の上を向いたまま固まっていた望月の視界の中、真っ赤に咲き誇ったリボンだけが明確な色彩を備えたまま降下して来る。すぐ傍で立ち止まりこちらを見下ろして来るアイギスが『……済みません、つい反射的に護身命令が』と呟いたのを聞き止め、彼はのろのろと半身を起こした。
滲み出る、苦笑。
「護身、って――大袈裟だなあ。ただ、その素敵な髪飾りを褒めようとしただけなんだけど」
「貴方が抱いた思惑はどうあれ、危険の有無を判断するのはこちらの自由だと思いますが」
「あ、そう……まあ、その誤解はこれからじっくり解いていくから今はいいさ。それより」
「ノート貸与の件なら、変わらずに【NO】であります」
「うーん。じゃあさ、せめて、そこまで頑固に拒絶する理由だけでも教えてくれないかなぁ」
「理由ならば明瞭です。”前回”、貴方にノートを貸与した際、わたしのノートに落書きをしましたよね?」
「落書き?」
「欄外の白紙部分に書き添えられていたものです」
「欄外――って、あぁ、アレの事? アレを落書きって言われるのは心外だなぁ。ノートを貸してくれた事に対して心からの御礼の言葉を書いただけなのに」
「……成る程、あれは御礼の言葉だったのでありますか。わたしには、あれは貴方のメールアドレスや電話番号や白河通り沿いの宿泊施設の住所と言った文字と数字の羅列にしか見えなかったのですが」
「堅苦しい文章だけが御礼の意思を表せる、なんてのは時代にそぐわない古臭い概念だって思わない?」
「全く思いません」
「……そうなんだ」
ざっくり、きっぱり、すっきりと言い切ったアイギスを見上げ、望月は再度苦笑を漏らす。
と、そこで。アイギスが何かを思い出したように秀眉を寄せて、彼に問いを投げ落とした。
「――あぁ、そう言えば」
「何?」
「ずっと気になっていたのですが、あの羅列の一番最後に書かれていたアルファベット三文字は何ですか? 確か、【B】、【W】、【H】だったと記憶していますが」
「え? それは勿論、【スリーサイズ】の事だけど」
「”すりーさいず”とは、一体どう言う意味ですか?」
「知らないの?」
「いいえ」
否定の一言。アイギスは立ち上がった望月の腕を掴み、引き寄せる。
「勿論、知ってます」
その言葉が引き金と化し、連動した彼女の全身は、彼の体躯をもう半階分――即ち下の階までの十数段に向け遠慮無く投げ落とす。先程で”慣れた”のか明らかに滑らかな回転を見せて華麗に転がり落ち大の字に仰向いた望月に向け、アイギスは言葉を続けた。
「わたしが尋ねたのは、”どう言うつもりですか”、と言う意味ですよ」
「…………え?」
半階を踏み下り、階下へ到達。
今度は速やかに身体を起こした望月が、後頭部を押さえつつ双眸をぱちくりさせる。
どうやら彼は本気でこの発言の意味が分かっていないらしい事を理解し、アイギスは架空の嘆息を立て続けに空気中に吐き出した――”自分達”には決して質問してはならない事項が存在する事を、彼は全く分かっていない。
「全く分かっていません」
「え……え? 何の事?」
それが”乙女”に取っての禁忌である事を、彼は、全く分かっていないようだ。