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創作サイト【文燈】の雑記、一次、二次創作書き散らし用ブログ。 休止解除しました。創作関連はサイトでの更新に戻るので今後は雑記、返信等が中心となるでしょう。更新が鈍い場合はツイッター(http://twitter.jp/gohto_furi)に潜伏している可能性が、大。
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 【 死よりも悪い運命 】
 ( 文庫・エッセイ / カート・ヴォネガット / ハヤカワ文庫SF )


 小説自体がエッセイ的な要素を豊富に含んでいる、彼のエッセイ。
 それがある意味自らの作品以上に【作品的】になるのは、事前から予想できていた話。【デッドアイ・ディック】におけるルディ・ウォールツのように、【母なる夜】におけるハワード・W・キャンベル・ジュニアのように、この文章の中で語っているのは“K・V”と自称する一人の登場人物と言ってしまっていいと思います。誰もがエッセイの中では自身を神様とするのは当然ながら、K・Vの場合は神様と登場人物の二役を兼ねている。地平線の凹凸を観察しながら蟻の行列の行く先に邪魔な小石を置き続けるような……望遠鏡と顕微鏡をそれぞれ片方の目で同時に覗き続けるような思索。運命に関しての中間報告。
 心優しきニヒリスト、と呼ばれている事を本人がどう感じていたのかはさておき、そんな“見出し”を鼻歌メイン(皮肉交じり)で裏切るように、文中には【他人】の名前と観察が溢れています。意外と言えば大いに意外――読む前は、純粋に世界や歴史に対しての思索に沈んでいる文章だろうなと見当を付けていましたから。
 だからと言って、人の名前の多さが人間関係への渇望を表しているかと言えるかどうかは微妙。様々な距離から他人を観察しているように見えて、その実、本当に観察しているのはその人間から生えている尻尾のように思えます。よくよく見ればそれは尻尾じゃなくて、他の誰かに、他の何かに繋がっている【関係性】のようなものですけれど。
 人と人とを繋ぐ赤い糸には、大抵は【愛】って素材が使われています。しかし実際にはゴム製の紐。容易には切れません。お互い離れようとしたら反動で衝突します。
 K・Vは、それを【尊敬・親切】と言う素材に置き換えた。それは万が一首に絡まっても完全に絞まる前にぷっつりと切れてしまう、のびきったラーメン並みに人に優しい強度の糸です。
 切れたら切れたで、また一から結び直してみればいい。
 そんな軟弱な糸を切らさないようにお互い動ければ、むしろそれこそが、上々たる意思疎通なんでしょうから。 

 『キリスト教またもや失敗』との名言が、文中に出てきます。
 しかし、彼曰く「ショー・ビジネスとしての現代の宗教」にとってはそれは失敗の内には入らないのでしょうね。笑とも仕様とも言い換えられるそれは、失敗を糧とするのではなく失敗を金にするだけのシステムとしてご立派に成人してしまったのでしょうから。
 なんじ殺すなかれを、【なんじ“は”殺すなかれ】と、ふと言い換えてみたくなる。

 兎も角、
 彼は作品にしろエッセイにしろ、それだけで感想を語り終わらせてはくれないようです。苦笑。(脱線は常に自己責任)
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 【 心理パラドクス 】
 ( 一般書籍 / 三浦俊彦 / 二見書房 )


 【ラッセルのパラドクス】以降はご無沙汰していた、三浦さんのパラドクス・シリーズ。
 取り上げられている個々の問題を読んで行くと、頭の外の錆び付いたネジが鮮やかな手付きで次々交換されて行く快感を味わえます。それと同時に「でも現実でこんな理論を駆使する人がいたらムーンウォークしながら自然に距離を離したいなあ」と思えてしまうのは、ほんのご愛嬌。そして、ちょっとだけ深刻かも。

 >墜落ネコの死亡率
 >プラシーボ効果
 >美人投票のパラドクス
 >アクセルロッドの実験(オウム返し)
 >カサンドラのジレンマ
 >エルズバーグの壺
 >アレのパラドクス
 >数の原子
 >パーキー効果
 >中国語の部屋

 これらの問題が個人的なお気に入りです。
 内容そのものが気に入ったと言うよりは、【他の“何か”に利用できそう】と言う即物的な意味でのお気に入りですが。
 因みに、【オウム返し】を心に装備している人を文中では「寛容かつ毅然たるわかりやすい人格者」と述べています。確かにその通りだとは思いつつ、某【され竜】でこの理論を語っていたあの枢機卿長さんが寛容たる(略)人格者だとはどう好意的に解釈しても認めたくない。苦笑。

 【 されど罪人は竜と踊る 1 Dances with the Dragons  】
 ( 暗黒ライトノベル / 浅井ラボ / ガガガ文庫 )


 真説こと、
 【され竜】ガガガ新装版。まさかやっぱり(どっち)のレーベル移籍。
 この一巻に関しては雑記でほぼ感想めいた事を書いてしまったので、それを載せておきます。ちょこっと微修正を含ませてリメイク版だと豪語してみるこの腹黒さ(そうでもない)。
 某さんの仰っていた通り、加筆量が尋常でない膨らみっぷり。脚本の根本部分、設定面が弄られている(主に指輪部分)ので、色々とシーン変更せざるを得なくなった部分はあるとしても、旧ヴァージョン(スニーカー版)と比べて百頁前後の増量とは恐れ入りました。さりげなく新キャラ(アーゼル)が登場していますが話の本筋には全く関わらせていない所が何とも控えめと言うか確信犯と言うか。
 で、まあ当然ながら台詞回しの部分も色々と修正されている訳ですが――個人的には修正前の表現の方が好きだったなあと思える箇所の方が修正後(以下略)よりも多かったような気がします。後、別に削らなくても良かった……と言うより削るべきではなかった箇所が削られていたのは、ちょっと不思議。ニドヴォルクとの初遭遇の際の【互いの名前を呼ぶのを止めて(スニ版)】表現がガガガ版では削られていたのは、何故だろう。削る必要がある表現だとは思えない。削っては絶対に駄目、と言うレベルの表現でもないので、まあそれ以上の思いはないのですけどね。
 全体的に、読む人の側に”少しだけ”近付いた感覚はあります。皮肉が減量して骨格が増強された、そんな感じ。少しだけ親切になった、と書くとあまりにも底の浅い感想ですが、実際そうなのだから避けようのない一文。笑。
 ラキ兄弟もそうですが、きゅらさん(注:キュラさん)(同じだ)ことキュラソーの出番がほんのり増やされていたのには満足。ガガガ版ではスニーカー版よりも何だか不幸属性が増していそうで更に倍(何)。仕事に粉骨砕身し過ぎて婚期を逃しそうなされ竜キャラ第一位の栄誉を独断で与える事にたった今決定(させるか!)――と言うか彼女、され竜世界の中で唯一と言ってもいい常識キャラなのでどうか大事に運用してあげて下さい、ラボさん。あッ、それと(次巻以降の登場ですが)ベイリック警部補もそのついでに。(酷)
 今後は、【新作長編】が八月に刊行されるそうですが――そうなるとアナピヤ編(と呼んでいいのか、どうか)の二冊の扱いはどうなるのでしょうねえ。それ以前にその新作は、アナピヤ編の後なのか、それともアナピヤ編自体を”なかったこと”にしてガガガ版二巻に直結する完全な真説用展開になるのか。
 著者がラボさんなだけに後者の可能性も捨て切れず、大いに心配です。かと言ってアナピヤ編を加筆修正で読みたいかと問われると何とも答え難いのですけれど。(修正……に、なる?)

 【 ナイチンゲールの沈黙 】
 ( 一般書籍・小説 / 海堂尊 / 宝島社 )


 一読で心を撃ち抜かれた【チーム・バチスタ】シリーズの、第二弾。”弾”と言う言葉がしっくり来ます。
 前作にして代表作の【チーム・バチスタの栄光】と比べるとより重厚で医療現場の内情に踏み込んだ造りになっています。映画化まで到達した前作と比べてエンタメ性が抑えられているのはまあ仕方のない所ではありますが、その分、いえそれを補って余りある位に文章中で登場人物が繰り出す会話・表現のエンタメ性は向上しているように感じました。出るキャラ出るキャラの殆どに仰々しさと華々しさが入り交ざった”通り名/二つ名”が引っ付いているのを見て【戯言シリーズ】を連想してしまうのは、両シリーズを読んだ人間としては至極当然の反応だと思わざるを得ませんね。浅井ラボと西尾維新がタッグを組んで書き上げた、と言ってしまうのが一番分かり易い表現ですが、そう言ってしまうと海堂先生はもはや神棚どころか天上の存在にしか思えなくなる罠。(罠違う)
 行灯、将軍、千里眼、トンネル魔人、ハウンドドッグに火喰い鳥。……前言撤回。やっぱり前作よりエンタメ性それ自体が増量、増殖しているとしか思えなくなりました。一部を列挙しただけで何だこの某国の偽キャラ遊園地並みに胡散臭い面々はって思えますし。海堂先生の手に掛かれば生死の境界線上で緊迫する病院も花火とパレードが二十四時間フル稼働するテーマパークに早変わりです。
 ハイパーマン・バッカスとシトロン星人の実写化を大真面目に望みます。あ、もち脚本は火喰い鳥こと白鳥。”オレオレ詐欺”攻撃やら”FFK”やらが良い子の眼前で展開された日にはPTAからの総攻撃を食らって流石の火喰い鳥も泡食って火の車ですね!(さわやかなわらい)
 それでいて最後があんな展開なんだから、もう、言葉もありません。
 この一作で完全に海堂ワールドに引き摺り込まれたんだなァ、と、今更ながら納得。

 【 図書館内乱 】
 ( 一般書籍・小説 / 有川浩 / メディアワークス )


 善意と言うものは鏡に映らないものです。自分では確認しようのない意識。
 正しい事をしていると一旦思ったが最後、「正しいんだから検証する必要なんてない」と、それが本当に正しいのかどうかを自分自身で再考する事ができなくなりがちです。小牧教官と毬江ちゃんのケースなんてのは、そう言った錯誤のとても分かりやすい事例。それを真正面からぶった切った柴崎の毒舌が全く毒舌に感じられなかったのは――うん、彼女と同様に同族嫌悪の気分なのかも。
 【新世相】事件(と便宜上表記します)で取り上げられていた犯罪、もしかすると、もしかしなくても、つい先日最高裁からの差し戻しで新たに死刑判決が下された”あの事件”がモチーフになっているのでしょうね。更に、調書の漏洩もついこの間似たようなケースが世間で騒がれたばかり(この作品が出版された当時はまだこの漏洩疑惑が発生していなかった筈ですが、こう言うのも先見の明、と言うべきなのか)。
 閲覧制限云々に関しては、どの選択も【正解、且つ不適当】なのでしょう、きっと。正しいか正しくないかなんて、所詮は見る角度と光の当たり方の違いでしかない訳ですから。だからこそ自分の信じる正しさ、図書隊で言うならば【図書館は誰がために】――奇遇にも次巻の核心ですが――を常に考える事が大切。疑う必要のない真実や正義なんて、実際の所、誰のためにもならない骨董品に過ぎないのですよ。
 少なくとも小腹を満たす銭としては役立った、売り払われた骨董品。手塚の時計。
 【別冊Ⅱ】辺りで、兄弟の仲直りとして二人で探して買い戻すような展開がありそうな、なさそうな。笑。

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