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創作サイト【文燈】の雑記、一次、二次創作書き散らし用ブログ。 休止解除しました。創作関連はサイトでの更新に戻るので今後は雑記、返信等が中心となるでしょう。更新が鈍い場合はツイッター(http://twitter.jp/gohto_furi)に潜伏している可能性が、大。
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 いいのかその愛称。(良くなッ)

 テスタマッタ(伊語)の語源が【クリエイティブな意味合いでクレイジー】だと知った。
 同名の高級ワインもあるらしいですね……ワインに限らず酒類への造詣は水溜り並みの浅さであまり手を出さない性質ですが、語源を知って俄然飲みたくなってきた。村山さんのみならず、角居さんや矢作さんにもぴったしきっかり当て嵌まるなーこの語源。その名前を貰った“当人(?)”も、語源の期待を裏切らない切れ者だし。

 デビサバ、アツロウルートで最終戦の手前まで進みました。
 ベル・ベリトって聞いた時に【バールベリト】を思い出した人は正統なメガテニストで、語尾が常時混乱している十二翼将の双子の片割れが脳裏をニョニョっと量子的透過した人は残念な事にお仲間です。笑。
 アトラスは世界一東京に優しくないゲームメーカーだとギネス認定して貰っていい、と大真面目に思う。東京都へ与えた損害の総額はあの両津勘吉といい勝負ですよ。や……両さんの方がちょっとだけ多いか。
 わりとどうでもいいですがあのドラマ版はとくにみるきはありません。

 裁判員制度が初適用された裁判が始まりましたね。
 一連の報道と各局の焦点を見てみて思うのは、「この裁判の被告は【市民感覚】の方なんじゃないか」に尽きる。元々思っていた事の再確認に過ぎない、とも言えますが。
 自分で裁くのは気が進まないしその資格があるとも思えない、と考える人がいる(結構いるでしょう)として、その人自身が【裁くに相応しい存在】だと考えるのは一体全体どのようなイメージなのかが結構気になります。絶対的な一神が“おわさない”多神教のこの国で司法権が裁判所から一般市民へと拡散して行くこの試みが完全に浸透した時、極端な話、以前よりも一神教的な宗教への耐性は格段に増していたりもするのかも。
 人が人を裁く事に抵抗がなくなって行くのは、穿った見方をすれば、【自分の意思を徹底的に薄め、自分ではない一神的な存在(神様とも言い、世間の空気とも言う)の代理人として裁いている】認識が自然なものになって行くのと同じではないかと思ったり……思わなくもなかったり。
 制度それ自体は、最初の数十例が最初で最後の山場でしょう。
 市民感覚が司法の永久凍土を溶かすのか、市民感覚が司法の正当性のアリバイとして吸収合併されるのか。それが明らかになる頃には、メディアの関心はこの問題から軸足も視線も移しているのでしょうけれど。
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 百メートル走のタイムならぎりぎり市内で一番になれそうな記録です。
 そして当然の事ながら、大抵の自然現象からは到底逃げ切れない速度。

 ケネディ大統領が暗殺された日付が11月22日だと、今しがた辞書で調べてみた。それと言うのも、寺山修司の【書を捨てよ、町へ出よう】の一節をふと思い出して好奇心が思索の出入口を塞いでしまったからです……彼もいずれ、太宰や芥川のように未来から定期的にブーメランする懐古の潮流に拾われて再ブーム化するのでしょうねえ。
 以下が、その該当部分。
 
――――――――――

 ところで、日本海にはたった一人の遺児がいる。
 彼は青森で、父のシコ名をとって「日本海」という寿司屋をひらいているのである。
「何時開店したの?」
 と私がきくと、彼はいかにも反抗の血を引く二代目らしく
「ケネディの殺された日ですよ」
 といってニッコリ笑うのであった。

――――――――――

 今日は誰々の誕生日です、と運勢占いやカレンダーなんかは声高に主張します。
 しかしそれよりは、今日は誰々の命日です、と言って詳しい死因も添えて教えて貰った方が個人的にはちょっとだけ有意義(五十歩百十一歩)。偉人の“価値”の誕生日は、この日の方が適切でしょう? 太宰治が生まれた事実に感謝するファンと太宰治が死んでくれた結末に感化されるファンのどちらが多いかを想像してみれば、誕生日と命日のどちらが観測者の感受性のおしべとめしべにより多くの花粉を振り撒くかは、案外容易に決められると思えます。
 人が自分以外の【目に見える誰か】に興味を持って“一”から知ろうとする時、大抵は【いま】から【むかし】へと人生を遡及し続けて行くもの。抵抗に逆らって遡上するからこそ、精神の“身”は引き締まる。
 だから、初めて会って興味を持った他人に【昨日何してました?】と聞かずに【覚えている中で一番古い記憶は?】って真顔で聞くような人がもしいるならば是非ともお会いして性格やら人生やらを解析してみたい。詳しく知りたいと思う人の履歴をその源流から一つ一つ、微塵も流れに逆らわず身を任せて辿って行けるのは、それ自体が一種の異能でしょうから。真似したいかどうかは、別ですが。

 ……【命日】と呼ぶから、カレンダーや占いが取り扱い辛いのかもしれない。
 現代の総PTA的感性の鉄条網に引っ掛からない為に、ここは一つ、以下のように言い換えてみるのも一つの手ではなかろうかと提案するものであります。(誰)




「何時開店したの?」
「ケネディの独立記念日ですよ」


 【 死よりも悪い運命 】
 ( 文庫・エッセイ / カート・ヴォネガット / ハヤカワ文庫SF )


 小説自体がエッセイ的な要素を豊富に含んでいる、彼のエッセイ。
 それがある意味自らの作品以上に【作品的】になるのは、事前から予想できていた話。【デッドアイ・ディック】におけるルディ・ウォールツのように、【母なる夜】におけるハワード・W・キャンベル・ジュニアのように、この文章の中で語っているのは“K・V”と自称する一人の登場人物と言ってしまっていいと思います。誰もがエッセイの中では自身を神様とするのは当然ながら、K・Vの場合は神様と登場人物の二役を兼ねている。地平線の凹凸を観察しながら蟻の行列の行く先に邪魔な小石を置き続けるような……望遠鏡と顕微鏡をそれぞれ片方の目で同時に覗き続けるような思索。運命に関しての中間報告。
 心優しきニヒリスト、と呼ばれている事を本人がどう感じていたのかはさておき、そんな“見出し”を鼻歌メイン(皮肉交じり)で裏切るように、文中には【他人】の名前と観察が溢れています。意外と言えば大いに意外――読む前は、純粋に世界や歴史に対しての思索に沈んでいる文章だろうなと見当を付けていましたから。
 だからと言って、人の名前の多さが人間関係への渇望を表しているかと言えるかどうかは微妙。様々な距離から他人を観察しているように見えて、その実、本当に観察しているのはその人間から生えている尻尾のように思えます。よくよく見ればそれは尻尾じゃなくて、他の誰かに、他の何かに繋がっている【関係性】のようなものですけれど。
 人と人とを繋ぐ赤い糸には、大抵は【愛】って素材が使われています。しかし実際にはゴム製の紐。容易には切れません。お互い離れようとしたら反動で衝突します。
 K・Vは、それを【尊敬・親切】と言う素材に置き換えた。それは万が一首に絡まっても完全に絞まる前にぷっつりと切れてしまう、のびきったラーメン並みに人に優しい強度の糸です。
 切れたら切れたで、また一から結び直してみればいい。
 そんな軟弱な糸を切らさないようにお互い動ければ、むしろそれこそが、上々たる意思疎通なんでしょうから。 

 『キリスト教またもや失敗』との名言が、文中に出てきます。
 しかし、彼曰く「ショー・ビジネスとしての現代の宗教」にとってはそれは失敗の内には入らないのでしょうね。笑とも仕様とも言い換えられるそれは、失敗を糧とするのではなく失敗を金にするだけのシステムとしてご立派に成人してしまったのでしょうから。
 なんじ殺すなかれを、【なんじ“は”殺すなかれ】と、ふと言い換えてみたくなる。

 兎も角、
 彼は作品にしろエッセイにしろ、それだけで感想を語り終わらせてはくれないようです。苦笑。(脱線は常に自己責任)
 このブログ、最近では【PCで記述→携帯に転送→携帯から投稿】するパターンが定着してきました。ダイヤルアッパー(?)なご身分の人間には、雑記を書く度にいちいちネットに繋いで投稿するのが結構な重荷。重力が数十倍の星で生きている気分にはなれますが、だからと言って気長さが身に付いたかと言うと何年経っても全然変化が無いのがむな悲しいばかりです。
 そう言えば、アクセス解析には携帯(iモード等)から見た履歴は記録されていないように思える。その一方で履歴の中には携帯から見ている人もいる……フルブラウザ機能を利用して見ている人の履歴しか残らない、と言う事なんですかね? わざわざ追求する程の謎でもないですが、喉の奥に一本だけ刺さった魚の小骨程度には気になる。暴いた所で、判明するのは小骨じゃなくて鼻毛だった、ってだけの不衛生な真実かもしれませんが。

 デビサバ進行――4日目の昼下がり。
 序盤の時点からうすうす(気が付くと【うすす】と打ってる)感じていた事ですが、この段階に来てよりその感触が膨れてきたので「この作品の製作にフライトプラン関わってるんじゃないか」、と一度精神の封を切っておく。サモナイシリーズのカルマルートを延々とプレイし続けている錯覚に陥ってます。アバチュ以降暫くは穏健路線に軸足を移していたフラストレーションがここでダム決壊して堰を切ったのか、とでも思わせたいとしか思えない進行具合。
 借り物の正義にはいつだって法外な利子が潜んでいます。馬鹿には見えない、のではなく【見たくない人には見えない】から余計に厄介なんでしょうがね。
 ケイスケはいずれ、確実に山さんから舌と眼鏡のレンズを抜かれそうな気がする。

 愛とは何かを三日振りに考えてみる。(某所より)
 “何もない空虚”路線に概ね賛同しつつ、自分なりの言語で着せ替え直してみると、
【あらゆる感情に必ず備わっている欠けた部分を全部集めてみると、愛の輪郭が浮かび上がる】――となります。色々な感情のそれぞれに“足りてない”部分を全て足し合わせて初めて、元々実体として存在していない【愛】の輪郭が見えてくる。他の主要な感情と比較しても【理想の】愛に関しての論議量が飛び抜けている(ように思える)のは、足りてないものだけをひたすら足し合わせて行ったが故に、人によって多少の差異はあれど結局は【個々人の理想型だけしか“出来上がれない”】事情があるからじゃないか、と思いました。
 その点、正義の理想型なんて本腰を入れれば両手の指の数に収まっちゃう位のパターンしかないようにも思える。上記デビサバにしても、ケイスケとミドリが借りている正義は借りた日と場所と利率と返済期の差こそあれ、基本的には同じ系列の消費者金融のお世話になっているようにしか見えませんからねえ。二人とも、最初に観たCMは同じなんじゃないだろうか。15秒バージョンか30秒バージョンかの違いはあるにせよ。
 正義は他人の資本を奪い取って返せても、(世間一般の)愛は自己資本……しかも己の生命限定でしか返済できない。愛と正義の両方を借りているヒーローは本編が終了した後、“どちらの返済”に行き詰って廃業したんでしょう。その割合、アクセス解析の件よりは遥かに気になる。

 設置から一年以上経過して流石にこのデザインにも見飽きてきたので、ちょっくら真面目にここのデザイン変更を考えてみようかと。
 まあ、今すぐって訳でもないし確実にひとのふんどしでナントカ(訳:他人のテンプレ頼り)ですが。さて。
 とある方々とメッセでお喋りする機会を頂いたので、おしゃべってきました。
 お話しの内容とは別に、自分の創作・記述動機の一つに【書き続けていないと言葉も表現も亡くしてしまうかもしれない】恐怖への対抗心がある事を精神の時効ぎりぎりで思い出したような気がする。……消滅時効すっごく短いですからね。昨日思い付いた表現には、もう、出逢えない。そのくせ取得時効は一生涯。
 昨日以前の何処かで出逢った“それ”と“よく似たもの”に繰り返し出逢い続ける事で、表現力やら文章力やらは磨かれて行くのかもしれませんね。その意味ではまだまだ下級ジョブですが。賢者を夢見てスライムをひたすら倒し続けてる遊び人……「知ってるかい、ダーマの神殿に行かなきゃ賢者には転職出来ないんだよ」と誰かから教わるまでに人生のあらかたは終わっちゃっている事でしょう。
 ひのきのぼうで魔王を屠れる遊び尽くし人は、きっと、世の中の水面下には溢れてる。

 それはそうと、民主党がマニフェストを発表しましたね。
 この単語、最後がtじゃなくて【o】な曲者なので綴りにはくれぐれもご注意を(誰向け?)。どうせなら時流に乗って【トゥ】にしておけば春日の新ギャグにも繋がるのに、残念。でもない。
 説明の端々に、【無駄遣いをなくす!】を織り込んでいるようで何とも勇ましい限りです。しかし、この場合に【無駄遣い】と言う表現を使うのは果たして適切な用法なんでしょうかね。
 【社会に何一つ還元されていない】と国民に思わせたくてその言葉を用いているんでしょうけど、実際には言う側の考えている“わるいやつら”の懐にお金が流れ込んでいる事をそう呼んでいる訳です。その全てを口座の中に溜め込んで一円たりとも外向けに使わなければ、或いは無駄遣いと呼んでもいいのかもしれません。しかし大抵のわるいやつはそうして得たお金で高級なクラブやら料亭やらに出向いて“分相応”な飲み食いをやらかします(ほぼ偏見)。そのお金はそこで働いている人に流れ、結果としてはその生活を支えているのでしょう。その意味では【無駄】ではありません。この場合に適切な表現は、例えば、【著しく不適切な遣われ方を是正する】なのではないかなー、と。長いので多少の割愛短縮は可。(なにさま)
 【無駄】、と一言で言い切ってしまうのは簡単且つ強力なパフォーマンス。
 が、最近はあまり話題にならない高速道路や一般道路の建設における【無駄遣い】にしても、その無駄遣いによって何とか首の皮一枚繋がって生き延びている地方の零細建設業者はわんさかいらっしゃる訳です。問題の全体、毛細血管の先っぽまでしっかり観察もせずに【無駄】と言い切るのなら、その先っぽで栄養を頂いて生き長らえている人達の生活・人生そのものをも「無駄だ」とばっさり斬り捨てるだけの覚悟が必要だと思う。
 無駄の用法を間違えている人に、何が無駄で何が無駄じゃないかの適切な仕分けを期待できないとしても、それは決して不適切な心情じゃあないだろう、と。

 デビサバは、二日目(実質三日目?)の昼下がりまで進行。
 フリーバトルでついつい無駄(じゃない)なレベル上げに勤しんでしまいたくなる点で、過去に嵌った幾多のシミュレーションRPGと肩を並べつつあります。携帯機に限定すれば多分最高だろうなー。冗談抜きで【魔神Ⅱ】の領域に踏み込みそうでこわたのしくなってきた。笑。
 主人公とアツロウとユズの関係性が、【女神Ⅲ】の主・勇・千晶とかなり重なり合って見えます。アツロウと勇なんて、“先生(教師)ファン”と言う点ではばっちりだ。これで先々、思想の違いで袂を分かったら完璧ですがそれはあんまり望みたくないのが悩ましい所。
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photo by 七ツ森  /  material by 素材のかけら
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