創作サイト【文燈】の雑記、一次、二次創作書き散らし用ブログ。
休止解除しました。創作関連はサイトでの更新に戻るので今後は雑記、返信等が中心となるでしょう。更新が鈍い場合はツイッター(http://twitter.jp/gohto_furi)に潜伏している可能性が、大。
オーフェンの魔王術には喪失がない/もしくはなにを喪失しているかが分からない(エッジ談)という文章を見て、もし彼の魔王術の代償が本人ではなく【自分が最も愛する他者の生命】だったなら、この物語の中で“彼女”が妙に老けて描かれている(らしき)理由になりうる――と考えてしまってすぐさま深入りを避けた(思考中断)。迂闊に考えてはならない……この件は。
とはいえ、彼の件とは無関係に、魔王術の代償はどういう場合でも本人が負担するのか否かという疑問は持っている。さて、事実はどうなのか。
とはいえ、彼の件とは無関係に、魔王術の代償はどういう場合でも本人が負担するのか否かという疑問は持っている。さて、事実はどうなのか。
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ハードカバー版を値段の問題で見送っていた『銃・病原菌・鉄(ジャレド・ダイアモンド著)』の文庫版(上下)を入手して読み耽っている。噂には聞いていたけれど、本当に濃い、且つ興味深い内容ですよ――この二冊と『食べる人類誌(フェリペ・フェルナンデス=アルメスト著)』、『神話の力(ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ)』を併せて読んだら“ぼくのかんがえたさいきょうのじんるいし”的な創作世界設定がわりかし容易に創れると思う。
「ニューヨークと同じようにニューギニアでも」
これは『食べる人類誌』の中の一節だけれど、『銃・病原菌・鉄』に当て嵌めてもいい一節だろうな、と。個々人・人種間の先天的な優劣云々ではなく環境――植物相・生物相・気候・地形その他諸々の条件差による数千年、数万年前の僅かな違いがカオス理論のように現代における決定的な文明差を生み出しているという見解にはある程度同意できた。それを環境決定論という言葉で簡潔にまとめてはならないという自戒も、一緒に。
第一、第二宇宙速度ならぬ、第一、第二【文明速度】的なパラメータが、地球の歴史上には隠しパラメータとして存在していたのかも。この場合の速度というのは文明そのものの発展速度じゃあなく、人口の稠密さ・食糧生産の発展速度になるのですが。稠密になりきれなかった、農業による食糧自給を定着させきれなかった社会と、それをある一定以上の規模――閾値以上――まで発展させた社会の差を文中で知るにつけ、そう思わずにはいられなくなる。
兎も角とっても奥深い上下巻。お薦めせずにはいられない。笑。
で、
それを熟読する前に『原大陸開戦(オーフェン)』を読み上げたりしていたので、原大陸にもしも人口稠密度の低い“未開の原住民”たちが生息し続けていたら、オーフェンたち開拓団が持ち込んだ家畜由来の伝染病(天然痘や結核、はしか、ペスト的な)で原住民たちが死滅していたのかも、等と考えてしまったり。しかし現実には入植した彼らの側にヴァンパイア症が発症している――前述の伝染病と一緒に括るべきものでないのは承知の上で――のがなんとも皮肉なお話。
かつてのミクソーマや梅毒のように、初期の強烈な致死性が(あっさり宿主を殺しすぎて自滅しないよう)徐々に緩和していく経過をヴァンパイア症はきっと辿らないのだろうけれど、キエサルヒマと原大陸では発症の度合や症状の軽重が違う事は単なる偶然なのか、なにか決定的な理由があるのかに関しては今後のシリーズで是非明かして頂きたいものですねえ。
それと、『魔術戦士の師弟』で監督官を食べたヴァンパイアの件。
あれ、文中のブラディ・バース氏の言葉を素直に解釈するなら【監督官を食べて監督官に変貌した(理性のなくなりかけた)ヴァンパイアが「この土地のために生きてきたんだ!」と非常にまともな発言をしていた(その後、別のものを食べたため監督官の姿消失)】という事になるけれど、理性がほぼ消失していたであろうその時点のヴァンパイアにそんな芸当ができたんだろうか。それともあの発言の最後の一瞬で【監督官を食べる→監督官に変貌→すぐさま別の何かを食べる→監督官の姿消失】という動きをしたのか。
後者なら(流れ的にはやや性急だけど)まあ一応の道理は通っているけれど、もし前者だとしたらちょっと疑問は残る。食べたものの姿形だけではなく根源的な性質(監督官の性格・思考)までも完全に模倣できるんだろうか――もしもそうならば、仮に小麦を食べて小麦に変貌しているヴァンパイアを一般住民が(小麦だと思ってうっかり)食べてしまった場合、ヴァンパイアは、そして住民はどうなるのだろう。
いやこれは本当に興味深い。誰か納得の行く真相を!(迷いなく他力
『解放者の戦場』は、どうにかして発売直後に入手したいと思っています、よ。
「ニューヨークと同じようにニューギニアでも」
これは『食べる人類誌』の中の一節だけれど、『銃・病原菌・鉄』に当て嵌めてもいい一節だろうな、と。個々人・人種間の先天的な優劣云々ではなく環境――植物相・生物相・気候・地形その他諸々の条件差による数千年、数万年前の僅かな違いがカオス理論のように現代における決定的な文明差を生み出しているという見解にはある程度同意できた。それを環境決定論という言葉で簡潔にまとめてはならないという自戒も、一緒に。
第一、第二宇宙速度ならぬ、第一、第二【文明速度】的なパラメータが、地球の歴史上には隠しパラメータとして存在していたのかも。この場合の速度というのは文明そのものの発展速度じゃあなく、人口の稠密さ・食糧生産の発展速度になるのですが。稠密になりきれなかった、農業による食糧自給を定着させきれなかった社会と、それをある一定以上の規模――閾値以上――まで発展させた社会の差を文中で知るにつけ、そう思わずにはいられなくなる。
兎も角とっても奥深い上下巻。お薦めせずにはいられない。笑。
で、
それを熟読する前に『原大陸開戦(オーフェン)』を読み上げたりしていたので、原大陸にもしも人口稠密度の低い“未開の原住民”たちが生息し続けていたら、オーフェンたち開拓団が持ち込んだ家畜由来の伝染病(天然痘や結核、はしか、ペスト的な)で原住民たちが死滅していたのかも、等と考えてしまったり。しかし現実には入植した彼らの側にヴァンパイア症が発症している――前述の伝染病と一緒に括るべきものでないのは承知の上で――のがなんとも皮肉なお話。
かつてのミクソーマや梅毒のように、初期の強烈な致死性が(あっさり宿主を殺しすぎて自滅しないよう)徐々に緩和していく経過をヴァンパイア症はきっと辿らないのだろうけれど、キエサルヒマと原大陸では発症の度合や症状の軽重が違う事は単なる偶然なのか、なにか決定的な理由があるのかに関しては今後のシリーズで是非明かして頂きたいものですねえ。
それと、『魔術戦士の師弟』で監督官を食べたヴァンパイアの件。
あれ、文中のブラディ・バース氏の言葉を素直に解釈するなら【監督官を食べて監督官に変貌した(理性のなくなりかけた)ヴァンパイアが「この土地のために生きてきたんだ!」と非常にまともな発言をしていた(その後、別のものを食べたため監督官の姿消失)】という事になるけれど、理性がほぼ消失していたであろうその時点のヴァンパイアにそんな芸当ができたんだろうか。それともあの発言の最後の一瞬で【監督官を食べる→監督官に変貌→すぐさま別の何かを食べる→監督官の姿消失】という動きをしたのか。
後者なら(流れ的にはやや性急だけど)まあ一応の道理は通っているけれど、もし前者だとしたらちょっと疑問は残る。食べたものの姿形だけではなく根源的な性質(監督官の性格・思考)までも完全に模倣できるんだろうか――もしもそうならば、仮に小麦を食べて小麦に変貌しているヴァンパイアを一般住民が(小麦だと思ってうっかり)食べてしまった場合、ヴァンパイアは、そして住民はどうなるのだろう。
いやこれは本当に興味深い。誰か納得の行く真相を!(迷いなく他力
『解放者の戦場』は、どうにかして発売直後に入手したいと思っています、よ。
引っ越し先でPCが繋がった(というか放置してた)ので、そのついでに長らく6のままだったIEを7にアップグレードしてみた。時代から確実に三周半程度周回遅れしているのはどっぷり自覚しているけれど、まあ気にしない(というかそろそろ新しいPCをだな
いずれはこっち(PPP)を創作文章専用にして、雑記用のブログを新設しようかとも考えているけれど、それ以前にまずはサイトも含めた放置状態全般を改善していきたいものですね。
◆引っ越してから読んだ本リスト
→『コロヨシ!!』(三崎亜記/角川文庫)
→『魔術士オーフェンはぐれ旅 原大陸開戦』(秋田禎信/TOブックス)
→『銃・病原菌・鉄(上下)』(ジャレド・ダイアモンド/草思社文庫)
私達が病原菌から学ぶべき事は、残念ながら数多い。(意訳:ちょうお薦め)
いずれはこっち(PPP)を創作文章専用にして、雑記用のブログを新設しようかとも考えているけれど、それ以前にまずはサイトも含めた放置状態全般を改善していきたいものですね。
◆引っ越してから読んだ本リスト
→『コロヨシ!!』(三崎亜記/角川文庫)
→『魔術士オーフェンはぐれ旅 原大陸開戦』(秋田禎信/TOブックス)
→『銃・病原菌・鉄(上下)』(ジャレド・ダイアモンド/草思社文庫)
私達が病原菌から学ぶべき事は、残念ながら数多い。(意訳:ちょうお薦め)
長谷敏司【あなたのための物語】文庫版を買った。Jコレクション版の白一色とはまた趣きの違う表紙具合(白一色にならなかった理由としては、計劃さん【ハーモニー】文庫版に先を越されたからだろうと邪推/でも一理はある筈)だけど、こちらも物語の本質を物言わず言い当てている。ドット状に見える赤が、作中の生命が置かれた境界――アナログとデジタルの国境――を表現しているように思えた。
死を想う時代から、死を携える時代へ。この物語の更に先の未来では、死すらも携帯アプリと同様に気分次第で選択できる世界になっているのかもしれない。“やりたいやつだけでてこい”――【A/Bエクストリーム】におけるイミテイブル(偽装経験領域)のような、社会から離脱・脱落した人々の〈死〉的な格納領域が公然と形成される遠未来像は、その技術さえ確立されればわりと早い段階で受け入れられてしまうのでは? 縁起でもない空想だけれど、そう考えてしまう。
され竜辺りとは微妙に違う意味でひとさまには薦めにくい作品。サマンサ・ウォーカーの【物語】とは全く別のキャラ・動機で、この〈精神記述前夜〉世界を描写した作品が読んでみたいですがね……SFマガジン辺りの短編で書いてもらいたいな。
これを敷居が高いと感じる方には、角川スニーカーから出ている【円環少女】シリーズをお薦めします。可愛いけど生々しいか可愛いけど頭のネジに問題あるオンナノコたっくさん出てきますよ!(下りてこない敷居
だからこういうのはブクログに書けと何度言っt(略
メタルマックス3がようやっとラスボス寸前まで進みました。おっかしいなー、予定では去年のお盆前には一周目を終わらせておく予定だったのに。うん、だから東電の工程表にもちくちく文句をぶつけられなかった訳だ(違)。
グラトノスがアンへリオ(され竜)に見えて仕方ないという人は必ずいる筈。両方観れば、分かってくれますとも(雲を突き抜ける敷居
死を想う時代から、死を携える時代へ。この物語の更に先の未来では、死すらも携帯アプリと同様に気分次第で選択できる世界になっているのかもしれない。“やりたいやつだけでてこい”――【A/Bエクストリーム】におけるイミテイブル(偽装経験領域)のような、社会から離脱・脱落した人々の〈死〉的な格納領域が公然と形成される遠未来像は、その技術さえ確立されればわりと早い段階で受け入れられてしまうのでは? 縁起でもない空想だけれど、そう考えてしまう。
され竜辺りとは微妙に違う意味でひとさまには薦めにくい作品。サマンサ・ウォーカーの【物語】とは全く別のキャラ・動機で、この〈精神記述前夜〉世界を描写した作品が読んでみたいですがね……SFマガジン辺りの短編で書いてもらいたいな。
これを敷居が高いと感じる方には、角川スニーカーから出ている【円環少女】シリーズをお薦めします。可愛いけど生々しいか可愛いけど頭のネジに問題あるオンナノコたっくさん出てきますよ!(下りてこない敷居
だからこういうのはブクログに書けと何度言っt(略
メタルマックス3がようやっとラスボス寸前まで進みました。おっかしいなー、予定では去年のお盆前には一周目を終わらせておく予定だったのに。うん、だから東電の工程表にもちくちく文句をぶつけられなかった訳だ(違)。
グラトノスがアンへリオ(され竜)に見えて仕方ないという人は必ずいる筈。両方観れば、分かってくれますとも(雲を突き抜ける敷居
大震災関連のニュースで、地盤沈下した沿岸部の被災地で稼動している排水ポンプ(入り込んだ海水を海へと汲み出す)の映像を見て、必然的に【ねじまき少女】(パオロ・バチガルピ/ハヤカワ文庫)を連想した。作中の海水ポンプはあのバンコクそのものを水没から救っているのだから、視覚化したら凄まじいスケールになるんだろうなー。
この作品が【虐殺器官】に通じる理由として、今ここに存在している現在を、発想を飛躍させるのではなく地道な、入念な“開墾”によって未来へと繋げている著者の姿勢があるように思える。現実の問題を一つ一つ丁寧に積み重ねて行って、解決し得るものを排除して、解決できないものを積み残して、堅実に予想でき得る新たな問題を積み増して。発想一つで削り上げる閃きの彫刻ではなく、砂粒を一粒一粒積み上げ、抜き取って行った果ての〈砂の城〉。けれどそれは、津波や激震すらも容易に跳ね除ける堅牢な論理によって下支えされている。
一切のサプライズを拒絶する完全に地続きの未来は、想像ではなく計数によって導き出されるのかもしれない。しかし【ねじまき少女】の場合、その冷淡な計数と、登場人物たちの由緒貧しき人間味が器用に両立しているからSFの枠に囚われないエンターテインメントとして評価されたんだろうなと感じた。影の主役はホク・セン。これは決して譲れない。笑。
計劃さんの作品と同様に、この作品でもジャクソン・ポロックの名前が出てきたのもちょっと興味深い所。アクション・ペインティング(オートマティスム)の思想それ自体が、SF、特に妄想理想が入り込まない地続きの未来を構築しようとする作家さんのスタイルとフィットするのだろうか。
いずれ、バチガルピさんの短編集もハヤカワ辺りで出して貰いたいものです。
――ブクログに書かなければならない文章だな、これ。(自分に向けて)(放置なう)
この作品が【虐殺器官】に通じる理由として、今ここに存在している現在を、発想を飛躍させるのではなく地道な、入念な“開墾”によって未来へと繋げている著者の姿勢があるように思える。現実の問題を一つ一つ丁寧に積み重ねて行って、解決し得るものを排除して、解決できないものを積み残して、堅実に予想でき得る新たな問題を積み増して。発想一つで削り上げる閃きの彫刻ではなく、砂粒を一粒一粒積み上げ、抜き取って行った果ての〈砂の城〉。けれどそれは、津波や激震すらも容易に跳ね除ける堅牢な論理によって下支えされている。
一切のサプライズを拒絶する完全に地続きの未来は、想像ではなく計数によって導き出されるのかもしれない。しかし【ねじまき少女】の場合、その冷淡な計数と、登場人物たちの由緒貧しき人間味が器用に両立しているからSFの枠に囚われないエンターテインメントとして評価されたんだろうなと感じた。影の主役はホク・セン。これは決して譲れない。笑。
計劃さんの作品と同様に、この作品でもジャクソン・ポロックの名前が出てきたのもちょっと興味深い所。アクション・ペインティング(オートマティスム)の思想それ自体が、SF、特に妄想理想が入り込まない地続きの未来を構築しようとする作家さんのスタイルとフィットするのだろうか。
いずれ、バチガルピさんの短編集もハヤカワ辺りで出して貰いたいものです。
――ブクログに書かなければならない文章だな、これ。(自分に向けて)(放置なう)